LOGIN二月に入って、新太くんが怒らなくなりました。
最初に気づいたのは、昼休みの廊下ででした。
三年生の男子が、二人で立ち話をしていました。
「結城んとこの四つ子いるじゃん。あいつら最近、仲悪くね?」
「なんか女がらみらしいよ。同じ子を取り合ってるとか」
「うわ、きっつ」
どちらも、知らない顔でした。
私は、足を止めませんでした。
慣れました。
文化祭のあとから、この手の話はずっと回っています。
私と四人の関係を、正しく言い当てられる人は一人もいません。
だから、どう言われても腹は立ちませんでした。
ただ、あの人たちが笑い話にされるのは、嫌でした。
問題は、その二歩後ろを新太くんが歩いていたことです。
振り向かなくても分かりました。
あの人の足音は、他の三人と違います。
歩幅が広くて、かかとから強く踏むのです。
新太くんは、何もしませんでした。
「新太が怒るのを二か月やめて、自分を見つめ直した」久遠くんは、ノートを持ったまま言いました。「幸也が三日寝ず、笑わせない自分の存在意義を確かめた。和樹は名前の由来を調べた。結論は皆同じだ。だが、俺はそんなことをしなくても分かっていた」「……はい」「いつからだと思う」私は、答えられませんでした。「正月に模造紙を作った日だ」久遠くんは、静かに言いました。「あの日、四人分の記憶を並べた時点で、俺は気づいていた。四人とも、記憶が一種類しかない。新太は守る記憶、幸也は笑わせる記憶、和樹はただ一緒にいる記憶。そして俺は、見ている記憶だ」「それは前に」「言った。君に言った。だが、あいつらには言わなかった」「二か月、黙っていた」風が、ドラム缶の縁で鳴りました。「新太が自分で気づいて、自分で数えて、自分で拳を傷つけた。幸也が自分で気づいて、三日眠らずに倒れた。和樹が自分で気づいて、自分の名前を疑った」久遠くんは、そこで一度、息を吐きました。「全部、俺が先に知っていたことだ」「……止めたと、言っていました」「三回止めた。嘘じゃない」久遠くんは、こちらを見ました。「だが、本気じゃなかった」「本気で止めるなら、方法はいくらでもあった。母に言えばいい。父に言えばいい。担任でも、医者でもいい。幸也が三日寝ていないと言えば、あの家の誰かは必ず動く」久遠くんの手の中で、ノートの角が曲がりました。「しなかった」「どうして」「見ていたかったからだ」私は、言葉が出ませんでした。「新太がどう壊れるのか、知りたかった。幸也がどこで折れるのか、知りたかった。和樹がどこまで自分を疑うのか、知りたかった」久遠くんの声は、淡々としていました。「面白いと思った瞬間が、たしかにある」「兄弟が壊れていくの
幸也くんの熱が下がったのは、三日後でした。学校に戻ってきた幸也くんは、前より少しだけ静かになっていました。喋ることは喋ります。ただ、途中で止まれるようになっていました。新太くんは、怒るようになりました。相変わらず、私のことでばかり怒ります。幸也くんが寝込んでいた三日間、新太くんは毎日、様子を見に行っていたそうです。誰にも言わずにです。言わなかったことを、幸也くんが後から笑いながら話していました。和樹くんは、当番に戻ってきました。木曜日だけ、また二人で歩くようになりました。替わってもらっていた分を、和樹くんは何も言わずに戻しました。理由も言いませんでした。三人とも、少しずつ元に戻っていったのです。元に戻った、というのは正しくないかもしれません。三人とも、壊れる前より少しだけ静かになりました。一度自分の底を見た人の静かさです。残ったのは、久遠くんでした。この人は、何も変わりませんでした。それが、いちばん不気味だったのです。新太くんが二か月怒りをやめたときも、幸也くんが三日寝なかったときも、久遠くんは同じ顔をしていました。同じように半歩前を歩き、同じように短く喋り、同じように半分だけ振り返りました。崩れないのではなく、崩れるところを見せないだけだと、私はどこかで思っていました。思っていて、聞けませんでした。この人には何を聞いても、先に見透かされてしまう気がしたからです。三月に入って、私は資料室に行きました。久遠くんに用があったわけではありません。ただ、あの部屋に行けばあの人がいる、というのが当たり前になっていたのです。誰もいませんでした。長机の上に、資料が一つも出ていません。この二か月、ここにはいつも何かが広げてありました。窓を背にした席の椅子が、きちんと机の下に入っていました。
次の日、私は結城家に行きました。お母さんが「二階よ」と言って、少しだけ声を落としました。「あの子、熱があるのに寝ないのよ。誰か来ると喋りだして」「……はい」「澪ちゃんが来たら、余計に喋るかもしれないけど」お母さんは、困ったように笑いました。「でも、来てくれてよかった」◇幸也くんの部屋は、思っていたより片づいていました。布団の中で、幸也くんは天井を見ていました。私が入ると、首だけこちらに向けました。「やあ」「熱は」「八度五分。下がった。優秀」声が、かすれていました。喉をやられているのが分かりました。「喋らないでください」「無理。それだけは無理」「幸也くん」「あのさ、知ってる? 風邪のとき喋ると治りが遅くなるらしいよ」「知ってて喋ってるんですか」「知ってて喋ってる」幸也くんは、笑いました。かすれた、ひどい笑い方でした。私は、椅子に座って、下を向きました。涙が、勝手に落ちました。「……あー」幸也くんの声が、止まりました。「泣かせちゃった」布団の中で、幸也くんは天井に戻りました。「俺、失敗だ」「失敗じゃありません」「失敗だよ」声が、少し低くなりました。「俺の仕事は、澪ちゃんを笑わせることなんだよ。泣かせたら、俺は何もしてないのと同じだろ」「仕事じゃありません」「仕事だよ」幸也くんは、目を閉じました。「新太、怒るのやめたんだって?」「……はい」「二か月やって、それでも残ってたって言ってた。鞄持ったり、車道側歩いたりするのは、やめられなかったって」
新太くんが怒りを取り戻したころ、今度は幸也くんがおかしくなりました。逆の方向にです。二月の終わりから、幸也くんはよく喋るようになりました。もともとよく喋る人です。それが、三倍になりました。朝、教室に入ってきた瞬間から喋っています。授業の合間も、昼休みも、放課後も。誰かが席を立てば声をかけ、誰かが笑えば次の話を始めます。声が、少しずつ大きくなっていました。教室の端まで届く声です。そこまで届かせる必要のない話でも、そうなっていました。クラスの子たちは、最初のうち笑っていました。三日目くらいから、少しずつ困った顔をするようになりました。誰かが話を切り上げようとしても、幸也くんは次の話を始めます。相手が笑わないと、もう一つ重ねます。それが面白いかどうかではなく、笑わせるまでやめないという意志だけが伝わってくるのです。「幸也くん」「ん?」「今日、何回喋ってますか」「数えてないなあ。千回くらい?」「喉、痛くないんですか」「痛い」あっさり認めました。認めて、また次の話を始めました。幸也くんは笑いました。目が、笑っていませんでした。三組は、文化祭の喫茶店をやったクラスです。幸也くんは、あのときの中心にいました。みんな、この人が明るいことを知っています。知っているからこそ、今の明るさが変だと分かるのです。◇結城家に行ったときも、同じでした。お母さんが台所にいる間ずっと喋り、お父さんが新聞を読んでいる横で喋り、新太くんに「うるさい」と言われても喋り続けました。お母さんが「幸也、ちょっと座ったら」と言いました。幸也くんは座りました。座って、そのまま喋りました。新太くんが、途中で黙りました。怒鳴りません
翌日の放課後、私は新太くんを呼び止めました。「川に行きませんか」「……なんで川」「なんとなくです」二月の川は、夏とはまるで違う顔をしていました。水が少なくて、石がたくさん出ていて、風が冷たくて、長くはいられません。堤防の斜面に、二人で座りました。「新太くん」「言うな」早かったです。「久遠に聞いたんだろ。あいつ、ほんと余計なことしかしねえ」「私が聞きました」「……そうかよ」新太くんは、鞄から折り畳んだ紙を出しました。模造紙のコピーです。しわだらけで、何度も開いて閉じたのが分かりました。「見ろよ」広げた紙の、自分の段だけを指しました。「俺と澪の記憶、四十七個ある。数えた」几帳面な字で、番号が振ってありました。この人が一つずつ数えたのだと思うと、胸が痛みました。「はい」「そのうち四十一個が、庇ったとか、怒ったとか、守ったとかだ」風が、紙の端を鳴らしました。「残りの六個も、送ったとか、荷物持ったとかだ」新太くんは、自分の段を指で叩きました。「俺、お前と笑った記憶が一個もねえんだよ」私は、何も言えませんでした。昨日の夜、私も同じ結論に辿り着いていたからです。「幸也の段を見ろよ」新太くんは、隣の段を指しました。「全部、笑ってる。遊んでる。ふざけてる。あいつ、お前と真面目な話した記憶がほとんどねえ」「久遠は、見てる記憶ばっかだ。気づいた、分かった、見抜いた。和樹は……ただ一緒にいる記憶ばっかだ。飯食った、歩いた、座ってた」紙を畳みながら、新太くんは言いました。「俺たち、一人ずつ一個しか持ってねえんだ」「分かっちまったんだよ」新
二月に入って、新太くんが怒らなくなりました。最初に気づいたのは、昼休みの廊下ででした。三年生の男子が、二人で立ち話をしていました。「結城んとこの四つ子いるじゃん。あいつら最近、仲悪くね?」「なんか女がらみらしいよ。同じ子を取り合ってるとか」「うわ、きっつ」どちらも、知らない顔でした。私は、足を止めませんでした。慣れました。文化祭のあとから、この手の話はずっと回っています。私と四人の関係を、正しく言い当てられる人は一人もいません。だから、どう言われても腹は立ちませんでした。ただ、あの人たちが笑い話にされるのは、嫌でした。問題は、その二歩後ろを新太くんが歩いていたことです。振り向かなくても分かりました。あの人の足音は、他の三人と違います。歩幅が広くて、かかとから強く踏むのです。新太くんは、何もしませんでした。聞こえていないはずがありません。階段を上がるとき、私の横に並んで、いつもどおり車道側にあたる位置に立ちました。それだけです。「新太くん」「あ?」「さっきの、聞こえてましたよね」「聞こえてた」新太くんは、前を向いたまま言いました。「でも、怒るのやめた」「なんでですか」「なんででもだ」新太くんは、そこで歩く速さを上げました。追いつけない速さではありませんでした。ただ、それ以上聞くなという意味だと分かりました。それきりでした。◇次の週も、その次の週も、同じでした。久遠くんが図書室で参考書を取られたときも、幸也くんが後輩にからかわれていたときも、新太くんは黙って見ていました。前なら、真っ先に間に入っていた人です。幸也くんが「新太、丸くなった?」と冗談を言いました。新太くん







